ゴミ屋敷についての記述
人類の歴史、とりわけ経済の歴史をよく観察すると、暴落の歴史、あるいは恐慌の歴史であることがわかる。
しかも、恐慌の前には必ず壮大なバブルが膨張している。
ということは、一つの法則性というか、当たり前のこと、つまり1+12と同じことなのだが、バブルというものは必ず弾けるのだ。
ただ、現在の経済状況が本当にバブルかどうかという見極めが重要となる。
上巻でも述べたように、短期間、つまり二〜三年の間に(長くても四〜五年の間に)株、あるいは不動産の価格が三倍以上になった場合、もうバブルと言ってよいだろう。
しかもその渦中にいるほとんどの人が絶対に下がらない、永遠に上がるという感覚を持ったとき、もうバブルと断言すべきだろう。
上巻の第一章で詳しく述べたが、いまや日本の一部も含めて世界のほとんどの主要国、主要都市は全部バブルだと言えるわけで、この全世界バブルが弾けでは、前回の大恐慌では何が起きたのか、これから詳しく見ていきたいと思う。
一○世紀前半、所有する植民地をすべてつなぎ合わせると、一日中陽が沈む8たら、それこそ歴史に残るような、重大な事態に陥ると言って間違いない。
「かつて起きたことはこれからも必ず起きる」キリスト教の聖書にもそう書かれているわけであるが、おそらく世界恐慌も必ずいつか起きる。
しかも「そのうち」ではなく、私達の間近に迫っていると私はいまヒシヒシと感じている。
いよいよ備えるべきトキが来たと言ってよいだろう。
そこで、私達は前回の大恐慌の研究を本気でしなければならない。
今後生き残るための最大の方策、あるいは対策を見つける唯一の手段と言ってよことがないとまで言われた大英帝国がついに没落のときを迎えていた。
歴史が巨大な音を立ててきしみ始めていた。
もはや、大英帝国は世界を牛耳るだけの力を失い、世界の警察官の地位も放棄し始めていた。
各国が勝手なことを始めようとしていた。
政治にとっても経済にとっても危険な時期が迫っていた。
その混乱の第一回目の結末として、第一次世界大戦がやって来た。
ョ−ロッパ中が焼け野原となり、塾壕戦と近代兵器の登場によって多くの若者が命を落とした。
ョ−ロッパが戦場となる中で、無傷だったアメリカは「世界の工場」となり大戦景気に沸いた。
怒涛の二○年代のスタートである。
上巻でも詳しく見たように、アメリカは未曾有の好景気に沸いた(どこかで見た光景だ。
八○年後の中国において、まったく同じことが起きている)。
成金国家のいつもの運命のごとく、「投資」がやがて「投機」へと変わっていった。
ピークを迎えてからのアメリカのバブルの崩壊の物語である。
ときはまさに一九二九年のことである。
人間はある強力なブームの中にしばらくつかっていると、永遠に続くものだという錯覚に陥るものらしい。
しかも、当時の指導的な金融家や高名な経済学者の多くもこのブームに乗り、助長した。
彼らは文字通り時代の寵児であり、大衆にもてはやされた。
その中でも有名だったのが、「売れベン」という風変わりなあだ名で呼ばれたバーナード・スミス、大銀行であったナショナル・シティ銀行の頭取だったチャールズ・ミッチェル、国際的金融家として傑出していたイヴァール・クルーガー、それにニューヨーク証券取引所の理事長だったリチャード・ホイットニーなどだった。
彼らを支持し株価の永続的な上昇を保証していたのが経済学の教授達であった中でも著名だったのは最も革新的な経済学者だったイェール大学のアービング・フィッシャーで、彼は一九二九年の秋に「この繁栄は永遠に続く無限の上り坂だ」と大衆にアピールした。
そのときすでに破局は目前に迫った当時の相場に最初の異変が起こったのは、一九二八年六月のことだった。
クーリッジ相場は初めて大きな下落を経験した。
八月になるとダウは六月の底値より二○%も上昇し、人々はそのことなどすっかり忘れてしまった。
株価は秋まで上昇し続け、二月に天井に到達した。
その問、ダウは前人未踏の三○○ドルの大台へと近づいた。
こうして一九二八年はウォール街が最も潤った年として幸福感のうちに終った。
一九二九年の年頭から数カ月間、株価は小動きに終始した。
春に軽い反落があった。
そのとき、FRB(米連邦準備制度理事会)は過熱したブームを抑制するために金利を上げるかもしれないと発表した。
相場は冷水を浴びせられた。
市場関係者らは中央銀行のこうした動きは市場を混乱させるものと考えた。
例のナショナル・シティ銀行の頭取で、自らも莫大な株を買っていたチャールズ・ミッチェルは、中央銀行に対抗して逆介入するという前代未聞の所業をやってのけた。
銀行の声明を発表し、「ナショナル・シティ銀行は、連邦準備制度によるいかなる抑制措置にも対抗するため、必要なだけ資金を貸し出す」その効果は絶大で、相場はたちまち持ち直した。
ウォール街の相場は最後の棒上げに入る。
強気相場のピークを示す「投機風の最後の一吹き」といわれるものだ。
一九二九年の五月末から八月までのたった三ヵ月間に、株価は前年一年分以上の上げ幅を記録した。
ついにダウは九月三日に、三八一ドルという目もくらみそうな高みに到達した。
恐ろしいことだが、それ以後二○年以上、ダウはこの水準に戻ることはなかった。
九月八日に相場は少し下げたが、一○月半ばまでは比較的平穏な日々が続いた。
崩壊は突如としてやって来た。
まるで、平和な団薬の食卓に、血に飢えた人食いドラが窓を蹴破って飛び込んで来たようなものだった。
一九二九年一○月一九日土曜日の相場は、木曜日にダウが六ポイント下落したのを受けて不穏な動きを示した。
市場が休みの日曜日、人々は新聞を読みあさって今後の動きを探ろうとした。
予想通り、週明けの二ューヨーク市場は波乱含みの展開となった。
これまでの下落とは少し様子が違っていた。
出来高は多かったのだが、毎日安値で始まった。
水曜日。
悪いときには悪いことが重なるというが、現実となった。
二ューヨーク証券取引所のすべての株取引を記録しているティッカー(相場速報機)が遅れ始めたのだ。
株が上がっているときは何の問題もないが、下がっているとき、人々は自分がどれだけ損をしているかわからないことになる。
投資家はひどいショックを受け、不安にさいなまれた。
とくにショックが大きかったのは、信用取引で株を買っていた人々である。
なぜなら、株価が下がって追い証を払えなければ、株は自動的に売られてしまうからだ。
一○月二三日水曜日、市場が閉まるまでの最後の一時間に前代未聞の二六○万株が取引され、ダウは七%も下がり、ティッカーがますます遅れ始めた。
不安に駆られた地方の投資家達が一斉に二ューヨークに電話をかけて最新の情報を聞こうとしたために、中西部の電話回線は完全にマヒしてしまい、何百万人もの人々が音信不通の暗闇に放置されてしまった。
翌一○月二四日、ついに「暴落」の第一波が襲って来た。
史上有名な「暗黒の木曜日」(ブラック・サーズデイ)である。
たまたまウォール街を訪れていたウィンストン・チャーチルが見学するなか、朝から大量の売りが殺到して、ダウは一時二七二まで下がった。
市場のメルトダウンが始まったのだ。
崩壊の直接の原因は前日に期限切れとなった信用取引の担保株の大量り売りだった。
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